みなさん、こんにちは。No.2の杉山です。
徐々に普段の生活を取り戻しながら、「新しい生活様式」にも少しずつ順応してきているところではないでしょうか。しかし、まだまだ油断できない状態ではありますが「withコロナ」で共に生きていくという前提で自分を守りながら日々の生活を送っていきましょう!
ということで、今回は【自分の生い立ち】シリーズ第4弾「杉山編」を完全ノーカット版でお送りしたいと思います!!
Here we gooooooo!!!
私は、杉山家の第3子で1991年7月3日にbirthしました。
小さい頃は毎日、祖父の畑に行き裸でカエルやザリガニを捕まえて遊んでいたそうです。
兄と姉の影響で、私も幼稚園の年長から習字を習い始めましたが、全く上達しませんでした。実はこの習字教室でNo.6加藤選手と出会っていたんです!
しかしこの時は、お互いのことは知らず、仲良くなったのは私が小3、加藤選手が小5の時で、母がやっていた「ママさんビーチボールバレー」がきっかけでした。あの時の加藤選手は……。
おっと、このままでは、加藤嵩士memoriesになってしまうので割愛します。
私が小2の時に、大同特殊鋼フェニックスOBの方が指導してくださる「東海ハンドボールスクール」というクラブチームが地元にでき、母が昔ハンドボールをやっていたこともあってハンドボールを始めました。
初日に緊張して、モジモジしながら目をパチクリさせていたことからコーチに「パチクリ」とニックネームを付けられ、それから28歳になった今もずっとチームメイトから「パチ」と呼ばれています!
濱野監督には、ハンドボールについては勿論のこと、礼儀や人として大切なことを教わりました。
一度だけ、嘘をついて練習を休み、中日ドラゴンズの試合を観に行ったことがありましたが、
しっかりバレました。(なぜバレたのかは今でも謎です……)
その時、「嘘はバレるんだなぁ」と小学生ながらに反省しました。(良い子は私みたいに、嘘ついて練習をさぼらないように!)
濱野監督は、とても厳しい方で、何度も辞めようと思いましたが、その勇気がありませんでした(笑)
しかし、そのおかげで今の私の土台ができたと思っています。
中学でも部活とスクールの両方に所属していて、毎日ハンドボール漬けの日々でした。
部活では、県大会のベスト16で敗れてしまいましたが、JOCジュニアオリンピック大会では、愛知県代表として出場し、自分より上手い選手とハンドボールができて、とても楽しかった記憶があります。
愛知県代表の掛け声「イッーハー・イッーハー」が、なかなか上手く言えず、練習したのが懐かしい思い出です。
高校は、長崎県の瓊浦(けいほ)高校に進学しました。
学校が山の上にあり、登校するのに何百段という階段を登らないといけないので、とてもきつかったです。
末岡監督(大同特殊鋼フェニックスOB)のもと、選手一人ひとりの個性を生かした指導をしてもらいましたが、私たちの代は谷間世代で特長も弱く、ポンコツでした。
末岡監督には、たくさんご迷惑をかけただけでなく、たくさんの愛情を注いでもらいました。(瓊浦名物?ダッシュトレが懐かしいです)
大学は地元に戻って大同大学進学し、佐藤監督(大同特殊鋼フェニックスOB)の指導のもと、4年間練習に励み、社会人に必要なことや大切なことを多く学びました。
大同大学のハンドボール部には各学年に目標やモットーがあり、当時はなぜ必要なの?と思っていましたが、今ではとても大切なことを学べていたと実感しています。
そして現在は、小学生の頃からの夢だったフェニックスでプレーすることができ、切磋琢磨の日々を送っています。
以上が私の生い立ちになります!
6月1日から小グループごとの練習も始まり、徐々に強度を上げた練習をしています!
今後もみなさんに少しでも勇気と感動を与えられるように、努力していきますのでご声援のほどよろしくお願いします!
また会場でみなさんに会える日を楽しみにしています!