みなさん、こんにちは。先週、誕生日を迎えたNo.4の藤江です!
まだまだプレゼント、お祝いメッセージ受け付けております!
新型コロナウィルスによる緊急事態宣言も解除され、少し落ち着いて来たのかなと思いますが、まだ不安定な状態が続いておりますので、今後も気を抜かずしっかりと予防を心掛けていきましょう。
さて、早速【自分の生い立ち】シリーズに入っていきたいと思いますが、過去の週刊フェニックスで小学校編について触れましたので、今回はそれ以外の時期について書いていきたいと思います。
私は母の地元である秋田県で生まれ、その後は福井県で育ちました。
幼少期は基本的に身体を動かすことが大好きだったので、いつも兄の後ろを勝手についていき、兄やその友達と外でサッカーや追いかけっこなど、活発に遊んでいた記憶があります。今思えば、そんな感じで小学校までハンドボールもしながら元気に過ごしたことで、ハンドボールに必要な身体の土台が作れたのかなと思います。
中学校では、私が元々行く予定だった学校にはハンドボール部がなかったので、最初はサッカー部かバスケ部にでも入ろうと考えていましたが、隣町の学校にハンドボール部があるということを知り、光陽中学校に行くことを決めました。3年時には春、夏、JOCと全国大会に3度出場することができましたが、春は池辺選手が所属する茨城県のけやき台中学校にダブルスコアで負け、夏は初戦敗退、JOCも予選リーグ敗退と、何1つ満足のいく結果を残すことができませんでした。
しかし、そうやって全国で色んなチーム、選手と戦えたことや、その中で結果を残せなかった悔しさもあり、もっと上手くなって試合に勝ちたい!という思いが強くなり、必然的に地元にあるハンドボールの名門・北陸高校にいくことを決意しました。
しかし、北陸高校は県外からも多くの選手が来ることもあり、みんなレベルが高く、試合に出してもらっても足を引っ張ってばかりでした。なんとかチームに貢献したいという思いでひたむきにトレーニングに取り組み、高校3年生の時には春の選抜優勝、夏のインターハイ準優勝、秋の国体優勝と、2冠で終えることができました。
北陸高校で結果を残すことができた自分は、よりレベルの高いところにいきたいという思いがさらに強くなり、数多くの日本リーガーを輩出しているハンドボールの名門・日本体育大学に進学しました。日体大は先輩、同期、後輩と本当に上手な選手ばかりで、チームメイトと切磋琢磨しながら自分の技術を磨くことができるとても良い環境でした。2、3年生の時はレギュラーメンバーとしてインカレ連覇に貢献することができましたが、4年生の時は準決勝で敗れてしまい、3年連続優勝を逃してとても悔しい思いをしました。
この無念を晴らすべく実業団でもプレーしたいと思い、小学校時代からの憧れであった末松監督に誘っていただいて大同特殊鋼に入ることができました。末松監督には色々な技術を教えていただき、時には辛いこともありましたが、今の自分に全て活きていると感じています。
こうして振り返ると、まだまだ書き切れないことがたくさんありますが、とても懐かしい気持ちになりました。
今後も初心を思い出して、頑張っていきたいと思います。
現在、フェニックスは練習を再開し、ハードなトレーニングにも取り組んでいます。
もうすぐ7月に入るということで、少しずつ気温が高くなってきましたが、今シーズン1つでも多くのタイトルを獲ることができるよう、しっかり準備をしていきたいと思います。
みなさん、応援よろしくお願いします!